「恐怖と、劣等だ」
コートのポケットに両手を突っ込み、重心を左足へ移動させる。
「年下や後輩にいつかは追い越されるなんて、そんな屈辱は避けたい。だから人は、未熟な人間がいつまでも未熟である事を望む。三十も過ぎた息子や、四十路にもなる娘を子ども扱いする親の心理も、そんなところからくるのかもしれない。老いると人は、他人から阻害される事を恐れるから、子供を子供扱いする事で、自分がいなくては生きていけない存在が居る事に安心を感じているのかもしれないな。口では成長を期待しながら、その言葉の端々では相手の愚かさを歓迎もしている。実に小狡くて、小賢しい」
海面で魚が跳ねた。
「お前も、そういう輩と同じだ。だからお前は妹には優しかった。だが世の中は違う。自分よりも賢明な人間がゴロゴロとしている。そういう集団の中では、お前は勝ち抜く事はできない。だからお前は世間に背を向けた」
魁流は何も言わない。反論もしない。
「涼木、お前は小心者だ。だから人とはあまり積極的には関わらなかった」
「違う。お兄ちゃんは争う事を好まない人で、だから」
「それは怖いからだ」
ツバサの言葉を遮る。
「人と関わり、自分が傷つくのが怖かった。誰かが傷つくような悍ましい光景を見るのも嫌だった。だからお前は世間に背を向けた。別に物静かで穏やかな性格だったからというワケじゃない。怖いものから逃げていただけだ」
「そうだとして」
魁流が低く反論する。
「そうだとして、それが今、何とどう関係する?」
違う、俺はそんな人間じゃない、というような反論はしなかった。別に慎二の意見を認めたワケではない。ただ、反論する必要もないと思ったのだ。
コイツにどう思われようとも構わない。ここで自分の人間性について言い争ったところで、何の意味もない。なにより、勝ち目は無い。
誰かと争って勝った例が、魁流には無い。だから争う事などしない。
勝たなくてもいいのだ。負けなければ。
「それが何だと? 鈴を侮辱する事と、何の関係がある?」
「織笠鈴も、同じ人間だった」
木の葉が、二人の間を転がった。
「彼女こそ、恐怖と小心と劣等に取り憑かれた、偽善者だ」
「いい加減にしろっ!」
「だから自ら命を絶ったんだ」
美鶴は、背筋に氷のような冷たさが這うのを感じた。
織笠鈴は、他人との争いは好まず、教室の隅にひっそりと存在する生徒だった。だが、か弱いかと言えば、それとも少し違っていた。
口汚い扱いに反論をするような事はしなかったが、メソメソと泣いたり、媚びたりするような態度も取らなかった。口には出さなくとも、内に秘めた意思の強さを持っていた。
彼女に接した多くの人間が、そのような印象を受けた。
「彼女はそういう女性だ。偽善者なんかじゃない」
魁流は怒りで全身を震わせる。
「彼女を侮辱する事は許さない」
「織笠鈴は、確かに他人と争う事は好まなかった。反論するような事もしなかったが、泣いたり媚びたりもしなかった」
「そうだ」
「腹の底ではどうだったか、それは知らんがな」
魁流は、目を見開いた。
「彼女は確かに他人とは争わなかったが、だが、ならば唐渓での生活を、楽しんではいたか?」
問われ、魁流は答えられない。
鈴は唐渓での生活を楽しんでいたか? 答えはNOだ。
「こんなところ、私は居るべきではないのかもしれない。獣医という夢が無ければ、唐渓なんて辞めているわ。あなただってそうでしょう?」
「俺の知る限り、彼女は学校生活を満喫していたようには思えない」
「楽しむか楽しまないかなんて、そんな事は関係ないだろう?」
「ならば、なぜ彼女は、楽しくもない唐渓での生活を、二年生の途中まで続けた? そもそも、なぜ唐渓に入った?」
「それは、彼女の亡くなった母親の希望だったからだ」
「つまりは、自分の意思ではなかったというワケか」
魁流は口をつぐんだ。
なぜだろう? なぜだか、とてつもなく不利な発言をしたような気がする。
「母親の望みを叶えたいというのが、織笠の望みだった」
「そうだ。彼女は、そういう人間だったんだ。そんな人間は他にもたくさんいるだろう」
「あぁ、いるさ。親や担任の勧めを疑いもせずに進路を決めるヤツなんてどこにでもいる」
「それのどこが」
そこまで言って、魁流はもう、反論するのを辞めた。相手の自信に満ちた言葉を聞いていると、自分などには到底敵わないといった感情が湧きあがる。
そもそも、なぜ慎二がそれほどまでに鈴を偽善者呼ばわりするのか、理由がわからない。わからないければ、反論のしようもない。
口を閉じてしまった相手に、慎二は冷笑した。
都合が悪くなると黙り込む。涼木魁流とは、このような人間だったのだ。女だけではなく、男にもこのような狡猾な人間がいたのだな。
「親の意向で入学するような輩など唐渓には山ほど居る。俺もその一人だったしな。織笠鈴もそうした生徒の一人に過ぎなかった。そもそも彼女は、唐渓の他の生徒と比べて大した違いなどなかったはずだ。経済的に貧しく、親の社会的地位を背後に持たないだけだ。唐渓ではそれは学生生活に大きな影響を与える要因だが、権力に下手に歯向かったりしなければ、問題も起こさず無事に卒業する事だってできる。だが彼女は、そうはしなかった。唐渓での生活に同化する事は拒否した。表立った対立はしなかったが、馴染む事もしなかった。だったら彼女はいったい、唐渓でどのような学生生活を送りたかったのだろうな? 不思議に思えるよ」
馴染む事もせず、対立もしない。
「なぜ彼女は、唐渓に通い続けたんだろうな?」
「それは母親の意向で」
「それだけで? 織笠はそれほど裕福な家庭の育ちではないと聞いている。唐渓の学費は負担だっただろうな。それだけの理由で六年も通い続けるのか? ずいぶんな母親想いだな」
「それだけ母親を想っての事だ。悪いか?」
「だったら、もう少し唐渓に馴染もうとしてもよかったんじゃないのか?」
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